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2009年04月05日

#22 望郷の歌

真清3

日露戦争前〜大正期にかけて満洲で諜報活動を行っていた石光真清の手記、第3巻。
日露開戦直前の明治37年1月から明治45年、乃木夫妻自刃まで。

石光は開戦直前に帰国、特殊任務から解放されしばらくのんびりできると家族と喜んでいたところに召集令状が届く。
満洲で諜報活動に従事するに及び、万全を期して石光は軍籍を去っていた。
知られざる苦労に報いるという意味もあり、第2軍(奥軍)の副官としての召集であった。

日本が経験した大戦争であるだけに、印象に残る部分が多々ある。
第2軍が経験した金州・南山の戦い。
副官として間近に見た奥司令官のたたずまい。
特に印象深いのは、石光の友人の話である。
士官学校からの親友・本郷源三郎の死。
そして石光の先輩、親友、兄とも慕った橘周太の死。
特に橘周太のくだりはこの本の白眉である。

橘との交流は石光が士官学校に入った時から始まる。
石光は橘の人柄を強く敬愛し、また橘もよく石光を可愛がり世話をし、橘家伝来の刀も譲るという親しさだった。
橘も石光と同じく第2軍の所属であったが首堡山の戦いで仆れ、陸軍初の軍神となった。
明治38年4月10日、石光は奉天入場後に行われた慰霊法要の司祭者であり、祭文を読む立場となる。
その祭文を考えなければならないのだが、それがどうしてもできない。

「とりとめもない思いが混じってきて、どうにもならないのである。
翌日も、その翌日も、硯に向い墨をすり、筆を噛んで目を閉じると、橘周太の面影が、私の生きながらえている姿をじっと眺めるのである。
橘周太はすでに軍神として近寄り難い遠いものになっているのに、瞼に浮かんでくる橘周太は、温かい体温を持った手で、筆を持つ私の手を押さえてしまうのである。
いよいよ翌日は慰霊祭という日なっても祭文はできなかった。
懊悩失望の果てに、私はふと思いついて、恥をしのんで第二軍軍医部長、森林太郎(鴎外)博士を訪ねて苦衷を訴え、祭文の執筆を依頼した。
鴎外博士は私の話を聞いて、笑いながら
「そのように親しい間柄では無理ですよ。祭文などというものは、冷やかな傍観者でなければ、書けるものではありません。よろしい、私が間に合わせてあげます」
と言った。」



日露戦争後、石光を待っていたのは苦難の道であった。
ロシア留学の際、今信玄と呼ばれた参謀本部の田村怡与造に将来悪いようにはしないと言われていたこと、また同僚の陸軍士官連中の焚きつけ(としか思えない)もあり、石光は軍籍を去っていた。
戦後は何らかの措置があるかとも、陸軍の叔父も考えていたようだが、戦争前後では随分陸軍の体質も官僚的に変化しており、石光は結局なんら報われることがない。
大陸に出て身に染まぬ商売をし、失敗の連続となる。
 
2009/04/05

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